私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『夷狄を待ちながら』 J・M・クッツェー

2008-08-03 08:34:08 | 小説(海外作家)

静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた夷狄の少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄と通じていると疑いをかけられ拷問に…。
南アフリカのノーベル賞作家、J・M・クッツェーの作品。
土岐恒二 訳
出版社:集英社(集英社文庫)


作者のクッツェーがどのような意図でこの小説を書いたかは知らない。
帝国という枠組みからして帝国主義に対する批判かもしれないし、作者が南アフリカ出身であることから考えて、帝国と夷狄というメタファーを通してアフリカーナーと黒人との対立を抽象的に描いた作品なのかもしれない。

しかし僕個人の印象としては、この作品はナショナリズムの勃興と、それに追随する民衆、そしてそれに抵抗しようとするも、その限界に直面する知識人という話と受け取った。


まずナショナリズムの勃興という視点から見てみよう。
この物語に登場する帝国は帝国の周囲にいる夷狄と敵対している。だが帝国が夷狄と敵対する理由は「私」という存在に寄り添って見ているせいか、さして根拠があるようには見えなかった。
もちろん文化が違うということもあって、町の住民たちも文明化していない夷狄に対して不快感を持っているし、商売のときには彼らを軽んじる行動を平気で行なう。
そしてそれは夷狄に対してシンパシーを持っている「私」でさえもそうで、夷狄の漁民を保護のため中庭に入れながら、彼らの行動に不快感を覚えることもないわけではない。

僕は思うのだが、帝国が夷狄と敵対する論拠は、相手のことを理解し合えそうにないことからくる不愉快さに由来するのだろう。
その不愉快さを基盤にして、自分の周りに敵を築き、帝国ひいては自分たちの結束を硬くしようと努めているように(深読みかもしれないが)、僕には見える。それが僕がナショナリズムと見いだした理由だ。
最後の方に帝国の一地域が洪水に見舞われるシーンがあるが、悪いことはすべて夷狄のせいにして逃げているように見えなくもない(もちろん本当に夷狄のせいなのだろうけれど)。

ともかくも帝国側の行動は偏見もあるが、僕には考えの足りないだけのナショナリズム的な行為にしか映らなかった。


そしてそんなナショナリズムに民衆は何の批判もなく追随してしまう。

たとえば物語の中盤以降で夷狄に対する虐待シーンが出てくる。
両頬と両手を針金で結ぶという痛々しい姿や、夷狄に対するむち打ちはえぐいの一語に尽きるだろう。読んでいてつらく感じることは確かだ。
しかし群集はそれを止めようとしない。ジョル大佐の行為に喝采し、止めようとした「私」に平気で虐待を加え、見下した行動を取ろうとする。
その自己の行動に疑問を持たない民衆の行動は寒気がするばかりだ。


そんな群集に、それでも「私」は彼なりの行動で批判を試みている。
「私」という人間には弱い側に対するシンパシーの念が強いからだろう。
それに倫理観も(幾分保身の念も強いけれど)ある。後半に登場する「いままさに犯されようとしている暴虐に自分まで染められてはならないし、またその加害者に対する無力な憎しみから自身を毒するような行為に走らないことである」という言葉は幾分の留保がつくけれど、彼なりの倫理観を示すし、「夷狄のために正義の大義名分を護ることよりも頭を断頭台の上に載せるほうががたやすい」という言葉も彼なりのポリシーを示すようだ。

しかしそこに何の迷いもないわけではない。
先にも触れたが、彼自身、夷狄の風習には眉をひそめているし(その感情を偽善ぶらず真正面から書いているところがすばらしい)、彼自身、夷狄の人間ではなく、所詮帝国側の人間に過ぎないからだ。
そしてそれこそが彼の限界でもある。

それを象徴するできごとは夷狄の女が、彼の元を離れた場面にあるだろう。
そのとき「私」は彼女の前してそれとなく自分の元に残ってほしいと語っている。しかし夷狄の女は「私」の言葉をあっさり拒絶し、夷狄の側に戻っていく。また交渉に現れた夷狄の男に「私」は銀を奪われただけで終わってしまう。
そこには相手にシンパシーを覚えながらも、それを根拠に相手の側と理解しあうことができるとは限らないという、苛酷な現実をうかがわせるようで興味深い。
そしてそれらのできごとこそが、「私」が帝国の論理に完全に組み込まれることもできないし、夷狄の側に入ることなどもっと不可能だ、ということを強く示唆しているのだ。


だがもちろんそれは「私」という人間に要因があることも否定できない。
たとえば後半になって、「私」が夷狄の女を手元に置き、中途半端な性的交わりを行なうのは、欲望を装った憐憫であるということが明らかになる。
それは裏返せば、彼にとって、女との関係は、所詮夷狄に対するシンパシーの代替行為でしかなかったということなのだ。

もっと別の言い方で語るなら、「私」は夷狄の女に対して、観念的な意味合いでしか接してこなかったということでもある。
つまり「私」にとって女はあくまで夷狄のメタファーでしかない。彼は夷狄の女と接触を持ったが、彼女本人と正確な意味で、コミュニケートできていたわけではないのだ。
「こんなにも長い間、無為に夕べを過ごしていないで、あの女に現地語を教えてもらうこともできただろうに」と悔いを見せるシーンがあるが、それは夷狄の女をメタファーとしてではなく、個人的な存在として接していればという悔いのように感じられなくもない。
そしてそこに気づかなかったことこそ、「私」という人間の真の限界があるのだろう。

そしてひょっとしたら帝国と夷狄の側を結びつける何者かがあるとするならば、その限界を越えた先にこそ答えがあるのかもしれない。そしてそれは口で言うほど簡単ではないのだろう。


とどうも無駄に長くなってしまったが、すばらしい作品ということは言い切っていい。以前読んだときは、この作品の良さを理解しきれなかったきらいがあるが、再読してこの作品の良さに気づくことができたと思う。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのJ・M・クッツェー作品感想
 『恥辱』
 『マイケル・K』

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